ベトナム
ベトナム社会主義共和国
Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam
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「国家」 人物 [編集] |
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、ベトナム語: Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam / 共和社会主義越南)、通称ベトナム(ベトナム語: Việt Nam / 越南)は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和制国家。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)[2]。
国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと対する。
目次[
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国名
正式名称はベトナム語で "Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam" ( 聞く)。略称は "Việt Nam" (ベトナム語発音: [viət˨ næm˧] ( 聞く))である。フランス語では "République socialiste du Viêt Nam"。漢字(チュニョ)では「共和社會主義越南」となる。
1802年に現代とほぼ変わらない領土でベトナムを統一した人物は、阮朝の創始者の阮福暎(嘉隆帝)である。1804年には清の嘉慶帝から越南国王に封ぜられ、『越南』(ヴィエット・ナム)を正式の国号とした、阮朝は最初清に「南越」の号を求めたが、嘉慶帝は「越南」という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。
日本語表記は「ベトナム社会主義共和国」、通称は「ベトナム」。一部文献等では「ヴェトナム」「ヴィエトナム」等の表記もみられる。漢字による表記では「越南」(えつなん)であり、越国と書くこともある。現在の日本国の外務省では、「ベトナム」・「ベトナム社会主義共和国」の表記を用いるが、かつては「ヴィェトナム社会主義共和国」と表記していた。
公式の英語表記は "Socialist Republic of Vietnam" 、略称は "Vietnam"、または "SRV"。1976年6月24日、ベトナム戦争後初の南北統一国会(第6期国会第1回会議)が招集され、7月2日の国会決議により現在の国名が決定された[3]。2013年の憲法改正時に、「ベトナム社会主義共和国」の国名を、1945年のベトナム八月革命によって独立した時の国名「ベトナム民主共和国」に改める動きが報じられた[4][5]が、改正案から国名変更部分は除外され、変更はされなかった[6]。
歴史
詳細は「ベトナムの歴史」を参照
石器文化
今からおよそ30 - 40万年前の地層から人類の歯がハノイの北方タムハイのタムクエン洞窟(ランソン省)で発見されている。他の場所からも、例えばクアンイエンのド山(タインホア省)、スアンロク(ドンナイ省)から打製石器や剥片石器がたくさん発見されている。また、タムオム(ゲアン省)、ハンフム(イエンバイ省)、トゥンラン(ニンビン省)、ケオレン(ランソン省)などからも人類の足跡が発見されている[7]。
今からおよそ2 - 3万年前、現代人(現生人類)の祖先と言われている新人(ホモ・サピエンス)が現れた。彼らの遺跡は、グオム石窟(タイグエン省)、ソンビー(フート省)やライチャウ、ソンラ、バクザン、タインホア、ゲアンの各省にみられる。彼らの道具の主なものは石斧で、万能石器である[8]。
最終氷期が終わり、地球規模で温暖化が始まった約1万年前から4000年前の人類の遺物や洞窟が発見されている。ホアンビン、バクソン(ランソウン省)、クインバン(ゲアン省)、ハロン(クアンニン省)、バウチョー(クアンビン省)では、前段階よりも石器が改良され、多種の石材を使い様々な用途に使用できる石器が製作されるようになっていた。今までの打製石器1だけではなく刃を研磨した道具の短斧・右肩石斧などの磨製石器がつくられている。その他には、自然石の礫石器や動物の骨や歯を利用した骨角器が造られた。また、パクソン、クインバン、ハロンでは、土器を伴い、石製の鋤・鍬が見つかっている。これらの遺物から生活様式が発展したことがうかがえる。たとえば、土器の使用により、煮炊きでき、食物を保存できるようになり、生活が豊かになってきた。さらに鋤や鍬で森・土地を開墾し農業ができるようになったと推測できる。さらに動物の骨から道具を作っていることから犬や豚を飼って畜産を行っていたと考えられる。また、農業や畜産を行うことにより、一定の場所に住み着き、狩猟・採取・場所によっては漁撈が可能になっていたと考えられる[9]。
青銅器文化]
部族国家群鴻龐朝(英語版)(現フート省付近の文郎国、山岳部の甌越(ベトナム語版)、紅河デルタの雒越(ベトナム語版)など)を形成していた。これが古越人(後のベト族)である。現在の中国、紹興一帯を支配した越の末裔がルーツとの説もある。紀元前4世紀頃から、東南アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が、北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯に広がった。秦の始皇帝によって象郡(中国語版)が置かれ、郡県支配を受けた。蜀泮によって文郎国・甌越・雒越が統合され、オーラック(甌雒、紀元前257年 - 紀元前207年)が成立し、コロアを王都とした。紀元前207年に南越国が成立しオーラックを併合。
北属期
詳細は「北属期」を参照
越人王朝の形成
モンゴルのヴェトナム侵攻
13世紀にクビライは3度に渡るヴェトナム侵攻(英語版)(元越戦争)を行なった。1258年、第1次元越戦争(ベトナム語版)。1283年、第2次元越戦争(ベトナム語版)。1287年、第3次元越戦争(ベトナム語版)。1288年の白藤江の戦い (1288年)で敗北した元軍は敗走した。
第四次北属期
14世紀に陳朝の都昇龍(タンロン)を2度攻略した制篷峨(チェーボンガー、Chế Bồng Nga)の死後、チャンパ王国では羅皚による王位簒奪が起こった。陳朝に代わった胡朝がチャンパ王国へ逆侵攻すると、羅皚の子であるジャヤ・シンハヴァルマン5世が明の永楽帝に援軍を求めて干渉戦争明胡戦争(英語版)(明・大虞戦争)が起こり、1407年に胡朝は滅亡。第四次北属期(英語版)(1407年-1427年)となり、明よって「交址」(Jiaozhi、Giao Chỉ、交趾、交阯)との地名で呼ばれた。
南進時代
藍山蜂起(1418年 - 1428年)で明朝を追い出した黎利(レ・ロイ)により後黎朝が起こる(1428年 - 1788年)。地方王権の緩やかな連合体という形態だったチャンパ王国[10]にはヴィジャヤ(英語版)とパーンドゥランガ(ベトナム語版)の2つの核となる地域があったが、1471年に後黎朝の侵攻(チャンパ・大越戦争(英語版))によりヴィジャヤが滅亡した。
黎朝帝室が衰えると権臣の莫登庸による簒奪王朝莫朝が権力を掌握。黎朝復興勢力と莫朝が紅河を挟んで向き合う南北朝時代の戦乱を経て後黎朝は復興したが、北部は帝室を牛耳る東京鄭氏が支配し、中部には広南阮氏による半独立政権が成立し、両者の間で鄭阮戦争が起こった。このころ日本は広南阮氏と交易し、ホイアンに日本人町ができ来遠橋などが建てられた。
広南阮氏は、1611年からパーンドゥランガの領土を侵食し始める。鄭阮戦争の難民がメコンデルタへ流出すると、カンボジアのチェイ・チェッタ2世(英語版)(在位:1618年-1628年)は、プレイノコール(英: Prey Nokor、現ホーチミン市)に難民を受け入れ及び徴税のために税関事務所を建設することを許可した。これによってメコンデルタのベトナム化が進行したことで、広南阮氏の南下を呼び込む結果になる。1681年、ダナン沖に明朝遺臣を名乗る楊彦迪(ユオン・ガン・ディック、Dương Ngạn Địch)、陳上川(チャン・トゥオン・スィエン、Trần Thượng Xuyên)らの率いる50隻余の艦隊が出現し広南国への亡命を申し出ると、広南国はメコンデルタへの入植に彼らを活用することとなった[11]
1693年に広南阮氏の武将阮有鏡(ベトナム語版)がパーンドゥランガを征服した。1708年に現在のキエンザン省・カマウ省に勢力を伸ばしていた鄚玖の半独立国「港口国」がカンボジア王を裏切り広南阮氏に朝貢するようになる。広南阮氏は、阮福濶の時代にカンボジア領であったメコンデルタ下流のクメール人居住領域の併合を行う。
西山朝
1771年に西山阮氏による西山党の乱が起こり1777年に広南阮氏を滅ぼした。1785年にシャムの支援を受けた広南阮氏の残党・阮福暎がメコンデルタ地帯に攻め込んだが(ラックガム=ソアイムットの戦い)、阮恵(グエン・フエ)率いる西山阮氏はこれを撃退した。阮恵は軍を北に向け鄭氏もまた滅ぼし、西山朝が成立した。1789年には、北部にかろうじて存在していた後黎朝の昭統帝(英語版)が清の乾隆帝に援軍を求めて始まった干渉戦争のドンダーの戦いでも阮恵が勝利し、後黎朝も滅んだ。阮福暎は、フランス人宣教師ピニョー・ド・ベーヌを始めとする外国勢力やチャンパ遺臣の助けを得て西山朝と戦った。
阮朝[
ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かれた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されている。
西山朝に内紛の兆しがみえると、阮福暎が1802年に西山朝を滅ぼし、阮朝(1802年 - 1945年)を興こした。1830年代には港口国が阮朝の支配下に入り、チャンパ遺臣の自治領も完全に阮朝に吸収され、現在の統一国家ベトナムの形がほぼ完成する[注 1]。
フランス植民地支配
1847年4月15日、フランス軍艦がダナンを砲撃し、フランスの侵略が始まる(ダナンの戦い(英語版))。1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊、ダナンに進行(コーチシナ戦争(英語版)、1858年-1862年)。1862年6月、第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を割譲。1867年6月、フランス領コーチシナ成立。1874年3月、第2次サイゴン条約(ベトナム語版)でフランスに紅河通商権を割譲。1882年4月、フランス、ハノイ占領。
1883年6月、トンキン戦争(英語版)(1883年6月 - 1886年4月)が勃発。8月、癸未条約(英語版)(第1次フエ条約、アルマン条約)でアンナンとトンキンがフランスの保護領となる。1884年5月、天津停戦協定(英語版)(李・フルニエ協定)を締結。6月、甲申条約(英語版)(第2次フエ条約、パトノートル条約)でベトナムは清への服従関係を絶つ。
1884年8月、清仏戦争(1884年8月 - 1885年4月)が勃発。1885年6月、天津条約で、清はベトナムに対する宗主権を放棄すると共に、癸未条約と甲申条約で定めたフランスのアンナンとトンキンへの保護権限を承認した。1887年10月、フランス領インドシナ連邦(トンキン保護領、アンナン保護領、コーチシナ直轄植民地に分割統治、カンボジア保護国と併合、1889年4月にはラオス保護国を併合)の成立(フランスによる植民地化)
反仏独立運動
フランス支配に対して北部を中心に多くの抵抗運動が起きた。初期の代表的なものに大陳起義、安世起義などがあり、指導者としてホアン・ホア・タム(黄花探/通称:デ・タム)などが知られる。
1904年、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)とクォン・デが維新会を結成。1905年、ファン・ボイ・チャウが反仏独立の支援を求めて、大日本帝国に来日(東遊運動)。1907年、en:Gilbert Trần Chánh ChiếuとFrançois-Henri SchneiderらによってLục Tỉnh Tân Văn(六省新聞、1907年 - 1908年)がサイゴンで発行される。1912年、広東でベトナム光復会(ベトナム語版)を結成。
1913年、Nguyễn Văn VĩnhとFrançois-Henri Schneiderらによって初のクオック・グー新聞のĐông Dương tạp chí(東洋雑誌、1913年 - 1919年)がハノイで発行される。1916年、コーチシナ蜂起(英語版)。1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織。1923年、Diệp Văn Kỳによってクオック・グー新聞Ðông Pháp Thời Báo(東法時報、1923年 - 1928年)がサイゴンで発行される。1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党(インドシナ共産党)を設立。1930年に、イエンバイ省でグエン・タイ・ホック(英語版)らベトナム国民党によるイエンバイ蜂起(英語版)、ゲアン省とハティン省でゲティン・ソヴィエト(ベトナム語: Xô Viết Nghệ Tĩnh、Nghe-Tinh soviet)の蜂起が起こった。
1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。
第二次世界大戦
詳細は「第二次世界大戦」を参照
1940年、フランス本国のドイツによる占領、ヴィシー政権樹立に伴う日本軍の北部仏印進駐。1941年、タイ王国とフランス(ヴィシー政権)が交戦。日本政府による仲裁。直後に南部仏印進駐から日英米開戦、太平洋戦争勃発。1944年、ヴォー・グエン・ザップが武装宣伝旅団(ベトナム語版)(ベトナム人民軍の前身)を組織。凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり北部(トンキン)を中心に翌年までに200万人以上(諸説あり)が餓死したとされる(1945年ベトナム飢饉)。1945年3月11日、保大(バオ・ダイ)帝が日本の援助(明号作戦)下でベトナム帝国の独立を宣言。1945年8月15日、大日本帝国がポツダム宣言を受諾した旨声明(玉音放送)し、軍に戦闘停止を命令。8月17日、ベトナム独立同盟(ベトミン)がハノイを占拠(ベトナム八月革命)。9月2日、ベトナム民主共和国の樹立を宣言、ホー・チ・ミンが初代国家主席に就任。同日、大日本帝国が降伏文書に調印した。
アメリカの介入と南北分断時代
インドシナ戦争
1946年11月、ハイフォン(海防)でのフランス軍との衝突から、フランスに対する独立戦争(第一次インドシナ戦争、1946年 - 1954年)が始まる。1949年、フランスはサイゴンにバオダイを復位させ、ベトナム国として独立を認める。中国、ソ連は、ベトナム民主共和国を承認。北ベトナムの土地改革(ベトナム語版)(1953年 - 1956年)。1954年5月、ディエンビエンフーの戦いでフランスは敗北、7月ジュネーヴ協定を結び、ベトナムから撤退、独立戦争終結。同時に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断される。10月、南ベトナムではアメリカを後ろ盾にゴ・ディン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にする。1960年12月、南ベトナム解放民族戦線結成。
ベトナム戦争
1962年2月、アメリカ合衆国はサイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入によるベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が始まる。1963年11月22日にケネディ大統領が暗殺され、ジョンソンが米大統領に就任すると、1964年8月2日と4日のトンキン湾事件以降、米軍は戦争に直接介入するようになる。1965年2月、アメリカが北ベトナムの爆撃(北爆)を開始し、本格的な戦争に突入する。1968年1月、南ベトナム全土で解放戦線・北ベトナムのテト攻勢により、アメリカは大打撃を受ける。5月、パリ和平会談を開始したが、会議は中断してしまう。同年10月、ジョンソン政権が北爆を中止して会議が再開された。1969年1月20日、ニクソン政権が誕生し、南北ベトナム、解放戦線、アメリカの4者によるパリ和平会談が始まる。6月、南ベトナムで解放戦線は、南ベトナム共和国革命臨時政府を建設し、ベトナム共和国と対峙する。9月2日、ホー・チ・ミンが死去し、レ・ズアンが第一書記として党のトップとなる。1972年4月、アメリカ・ニクソン政権は北爆を再開する。1973年1月、南北ベトナム政府および臨時革命政府ならびにアメリカの4者が、パリ和平協定に調印する。1973年、日本との国交が樹立される。1975年4月30日、北ベトナムと解放戦線が春の大攻勢を行うと、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏する。サイゴンは陥落し、ベトナム共和国は崩壊に至る。南ベトナム共和国の名の下に北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結した[12][13]。
南北ベトナム再統一以後
1976年4月、南ベトナム消滅による南北統一、初の南北統一選挙が行なわれた。1976年7月2日、ベトナム民主共和国をベトナム社会主義共和国に改名。1976年12月、ベトナム労働党第4回全国代表者大会をハノイで開き、旧名称であるベトナム共産党を再度採用した。
カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争
カンボジアによる多くの国境侵犯やバチュク村の虐殺などにより、1978年12月にカンボジア・ベトナム戦争(第三次インドシナ戦争、1978年 - 1989年)でカンボジアへの侵攻を開始。1979年、侵攻を非難する中華人民共和国がベトナムを攻撃し、中越戦争が開始される。世界各国は援助を停止したためベトナムは孤立するが、戦争期に中ソから支援されまたアメリカや南ベトナムから鹵獲・接収した多種多様な近代兵器と実戦経験豊富な古参兵を擁するベトナムは、文化大革命で混乱・疲弊した中共軍を相手に善戦し、アメリカに続き国際連合五大国の一角である中国を一度は退けた。
1986年7月、レ・ズアンが死去。12月、第6回全国代表者大会以降、チュオン・チン国家評議会議長体制は、社会主義型市場経済を目指す『ドイモイ(刷新)政策』を開始し、改革・開放路線に踏み出す。1988年3月14日、ジョンソン南礁が中華人民共和国に占領される(スプラトリー諸島海戦)。1989年9月、国内経済が疲弊したベトナムは、カンボジアから完全撤兵し、カンボジア・ベトナム戦争が終結。1991年、ヴォー・チ・コン国家評議会議長が訪中して江沢民総書記と会談、越中関係正常化。
関係改善期1992年9月22日、レ・ドゥック・アインが国家主席に就任。1993年2月、ベトナムとフランスが和解。当時のフランス大統領はフランソワ・ミッテラン。1995年7月、クリントン・アメリカ大統領がベトナムとの外交関係樹立を発表。1995年8月5日、ベトナムとアメリカが和解。7月、東南アジア諸国連合 (ASEAN) はベトナムの加盟(7番目の加盟国)を認める。10月、所有権や契約の考え方を盛り込んだ、初めての民法ができる。1996年1月、ASEAN自由貿易地域 (AFTA) に参加。1997年、チャン・ドゥック・ルオンが国家主席に就任。1998年、アジア太平洋経済協力 (APEC) 参加。2003年7月5日 フォンニャーケーバン国立公園世界遺産に登録。
2003年、日越投資協定締結。2006年初頭、Bui Tien Dungが拘留される。6月27日、チャン・ドゥック・ルオン国家主席の引退に伴い、新国家主席にベトナム共産党のグエン・ミン・チェット政治局員(ホーチミン市党委員会書記)をベトナムの国会は選出した。また、引退するファン・ヴァン・カイ首相の後任にグエン・タン・ズン党政治局員を国会は選出した。6月28日、新首相の提案に基づき8閣僚の交代人事を国会は承認した。ダオ・ディン・ビン(ベトナム語版)交通運輸相は同省傘下の疑獄事件『PMU 18 scandal』で指導責任を問われ、事実上更迭された。
2007年1月11日、世界貿易機関 (WTO) に正式加盟した。150番目の加盟国となった。2007年10月16日、国連総会で安全保障理事会の非常任理事国に初選出された。
政治
ベトナム共産党の党旗(左)とベトナム社会主義共和国の国旗(右)。 |
統治体制
政体は社会主義共和制。ベトナムの統治体制は、ベトナム共産党による一党独裁制である。ベトナム共産党の最高職である党中央委員会書記長、国家元首である国家主席、首相、国会議長の4人を中心とした集団指導体制であり、現在の党書記長はグエン・フー・チョン、国家主席はチャン・ダイ・クアンであり、首相はグエン・スアン・フック、国会議長はグエン・ティ・キム・ガンが務める[14]。
「ベトナム社会主義共和国主席」および「ベトナムの首相」も参照
マルクス=レーニン主義、ホー・チ・ミン思想を基軸とするベトナム共産党には、現在のベトナム社会主義共和国憲法(2013年制定)第4条に「国家と社会の指導勢力」と明記されている。建国以来、一貫して集団指導による国家運営を行なっており、ホー・チ・ミン(初代ベトナム労働党主席兼ベトナム民主共和国主席)でさえも専制的な権力を有したことはない。1980年代までは、民主党、社会党などの衛星政党も存在するヘゲモニー政党制であったが、1980年代末には解散され、名目的な複数政党制から、純粋な一党制に移行した。現在、ベトナム共産党とその衛星政党以外の政党の結成は一切禁止されている。
政府の運営は極めて官僚的であり、ソビエト連邦や、中国共産党独裁下の中華人民共和国に類似している。近年では行政手続きを削減するなど透明性や効率性を向上させようとしている[15]。
立法
詳細は「国会 (ベトナム)」を参照
立法府たる一院制の国会は憲法では「国権の最高機関」とされ、定員500名、任期5年。ただし一党独裁制のため、国会は重要な役割を果たしてはいない[注 2]。全立候補者は共産党翼賛組織の「ベトナム祖国戦線」の審査で絞り込まれる[17]。投票率は9割以上だが、家族や組織の代表者による代理投票が行われており、実際の投票経験はない国民も多い[18]。
国会議員の9割以上は共産党員であり、1986年以降は政府批判の発言も見られるが、党の指導は絶対的である[18]。
民主化
現在でも、しばしば政治の民主化を望む人々が逮捕されることがある。
反体制組織
反体制組織は今なおベトナム共和国時代の対立を解消できておらず、1960年代に南ベトナムからの独立を企てた諸民族の抵抗組織フルロ (FULRO) 関係者はこれらの組織とは対立関係にあり、各組織の力を一つに集めることができるリーダーシップを有した指導者が存在しない。
軍事
詳細は「ベトナム人民軍」を参照
ベトナム人民海軍の兵士。 |
ベトナム人民軍 (Quân đội Nhân dân Việt Nam) は1944年12月22日に建軍された。徴兵制を採用しており、18-27歳の男子に原則として2年の兵役義務がある。主力部隊、地方部隊、民兵の三結合方式による全国民国防体制を採用する。国防安全保障評議会議長は国家主席が兼任し、首相が副議長を務める。憲法ではこの国家主席がベトナム人民軍の統帥権を持つとされるが、軍の実質的な最高意思決定機関はベトナム共産党中央軍事委員会であり、党中央軍事委員会書記を兼任するベトナム共産党書記長が事実上の最高指揮官とされる。中越戦争時には総人口5000万人台に対して正規軍だけで170万人の兵力を有していたが、現在では総人口約9000万人に対して48万4000人まで削減された。人員は陸軍が41万2000人、海軍が4万2000人、防空・空軍が3万人である。このほか、予備役と民兵が300-400万人。予備役将校の職業はさまざまで、高級官僚や大学教授も少なくない。国防予算は推定約32億米ドルである。
ベトナム人民軍は日本の防衛大学校に本科学生相当の留学生を多数派遣している。インド海軍はベトナム人民海軍将兵の訓練協力や海軍艦船の供与を行っており、ベトナムはインド海軍艦艇のベトナム常駐を要請している[19]。アメリカ合衆国や日本からは巡視船の供与を受け[20][21]、カムラン湾には伝統的友好国のロシアは勿論アメリカ海軍や海上自衛隊を寄港させている。2014年には国際連合平和維持活動に初参加した[22]。
国際関係
ベトナムと外交関係を有する諸国の一覧図。 |
中国との関係
ベトナムは長い歴史の中、中国歴代王朝から繰り返し支配と侵略を受けた。紀元前111年から約1000年のも間、中国歴代王朝はベトナムを支配下に置いたが、938年にゴ・クェン(呉権)が白藤江の戦い (938年)で南漢軍を破って独立を果たした。この間、1世紀にベトナムで初めて後漢の圧政に立ち上がったハイ・バー・チュン(チュン姉妹)は英雄視されている。また、大元ウルスの侵攻に対して陳興道率いる陳朝ベトナム軍が白藤江の戦い (1288年)で勝利した。15世紀初頭に明朝の永楽帝にベトナムが支配された際にも、1418年にレ・ロイ(黎利)の蜂起により、明軍を撃破し、黎朝を建国している。13世紀-19世紀に中国の漢字をベースとしたチュノムがエリート層を中心に浸透したが、一般庶民までは浸透しなかった。
第一次インドシナ戦争やベトナム戦争では北ベトナムは中華人民共和国から支援を受け、グエン・ソンのような中国共産党党員もベトナム人民軍を訓練した。しかし、パリ協定での米軍撤退に乗じて西沙諸島の戦いで中国が南シナ海への進出を果たしてからはベトナムとの摩擦が起きた。南北ベトナム統一後には中国はニクソン大統領の中国訪問で接近した米国とともに親中派の民主カンプチアを支援し、対する親ソ派のベトナムによる侵攻(カンボジア・ベトナム戦争)を巡って1979年に中国との大規模な戦争を起こし(中越戦争)、1989年までたびたび交戦(中越国境紛争)をしている状態であった。
『西沙諸島・南沙諸島はベトナムのもの』(Hoàng Sa, Trường Sa là của Việt Nam)と主張するキャンペーン。
(2013年、ホーチミン市統一会堂にて)
また、最近では南シナ海にある南沙諸島(ベトナム語名チュオンサ諸島)・西沙諸島(ベトナム語名ホアンサ諸島)の領有権問題も抱えている(1988年には人民解放軍によるスプラトリー海戦によって、駐留していたベトナム人民海軍部隊を撃破され、ジョンソン南礁を占拠されている)。そのため、中華人民共和国に対する関係も悪く、南沙諸島の領有権問題で、普段は禁止されているデモも2007年12月に公安(警察)の取り締まりもなく、半ば公然と行われた。
また、九段線(通称:牛の舌)の主張に基づき、中華人民共和国が南沙諸島と西沙諸島を含む南シナ海の島嶼部を『三沙市』として成立させたことに対して、ベトナム外務省は猛烈に抗議をし[23]、ベトナム社会主義共和国は、領有するに十分な歴史的証拠と法的根拠を持っているという見解を示し、中華人民共和国の三沙市設置はベトナムの主権を侵害することであり、両国間合意に違反するとともに、中越両国が海洋領有問題解決を目指し開始した交渉を妨害するものである、と抗議した[24]。2012年6月21日、ベトナムの国会は、南シナ海の南沙諸島・西沙諸島の領有権を定めた「ベトナム海洋法」を可決、これに対し中華人民共和国政府は強い抗議声明を発表[25][26]、ベトナム社会主義共和国もまた、中華人民共和国外交部の抗議に対して「中華人民共和国の道理に反した批判は強く拒絶する」と非難する声明を発表した[27]。ベトナムにとって、中国からの独立は、国家としてのアイデンティティーでもある[28]。
2014年には、ベトナムが主張する排他的経済水域において、中華人民共和国が石油掘削リグを設置したとして、中国海警がベトナム沿岸警備隊に、南シナ海で衝突されたことをベトナム政府が公表したことから、ベトナム国内で2014年ベトナム反中デモが起きた[34]。2016年には緊張が続いてることから中国との国防省同士のホットラインを開設している[35]。
台湾との関係
「在台ベトナム人」も参照
台湾には、在台ベトナム人(在台越南人)とベトナム系台湾人(越南裔台灣人)がいる。ベトナム戦争後の難民や出稼ぎ労働者、配偶者としての台湾への移住などによって形成された。2005年時点で在台外国人約51万人のうち、在台ベトナム人は約15万人と30%を占める[注 4]。出身地では出稼ぎ労働者が主に北ベトナム出身者が多く、配偶者では主に南ベトナム女性の出身者が多い。ベトナム人配偶者は「新移民」とも呼ばれ、台湾の農村地域では配偶者が不足しており、婚姻仲介業者がベトナム人女性を紹介する場合が多く、婚姻により台湾に定住するベトナム人女性が増加しているが、生活環境の違いが問題となる場合もある。
北朝鮮との関係
朝鮮民主主義人民共和国とは、共産主義国家同士の関係で、ハノイ、平壌双方の首都に大使館が設置されており、大韓民国よりも早く国交を結んでいる。ベトナム戦争時は、北ベトナムとの軍事協力と朝鮮人民軍派兵の援助を受けている。また、過去にはベトナムの声の交換中継をしていた。一方でベトナムは北朝鮮の銀行関係者を追放するなど国連の対北朝鮮制裁を実施している[36]。
韓国との関係
詳細は「韓越関係(ベトナム語版、韓国語版、中国語版、英語版)」を参照
大韓民国は、ベトナム戦争時に「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」のスローガンの元でベトナムに出兵し、ベトナム共和国を支援するアメリカ合衆国側の軍隊として延べ30万人の大韓民国国軍が参戦した。また、戦争中にゴダイの虐殺やタイヴィン虐殺、ハミの虐殺やタイビン村虐殺事件やフォンニィ・フォンニャットの虐殺等、数々の民間人に対する大量虐殺事件を起し、ベトナム人女性や少女に対して強姦を行った。また、多くのライダイハンが産まれてしまい、その子供は、ベトナム国内で差別の対象になっており、2013年現在でも、正確な人数が判明していない。
1992年に国交樹立し、2000年代以降両国は経済的な結びつきを強めている。韓国のキョンナムグループがハノイで一番高い建物京南ハノイランドマークタワーを所有し、またホーチミン市でも一番高い建物であるビテクスコ・フィナンシャルタワーをヒュンダイグループが建設するなどの件が象徴的である。またホーチミン市ではダイアモンドプラザやクムホアシアナプラザなどの韓国資本による商業ビルが多く開業している。
アメリカ合衆国との関係
ジョージ・W・ブッシュ大統領とグエン・ミン・チェット国家主席(2007年)。
第二次世界大戦中は、アメリカ合衆国と現政権のルーツにあたるベトミンとの関係は盟友であった。日本軍優勢の頃にインドシナに不時着したり、パラシュートで降下したアメリカ軍航空隊の兵士たちは、フランス植民地政府に見つかれば日本軍に引き渡されていたが、彼らのうち何人かはベトミンの手により救出されて事なきを得ている[注 5]。また、アメリカ軍がベトナムに潜入し、タイグエンの日本軍飛行場を奪取した際には、ベトミンの戦闘部隊と作戦の協力を行っている[38]。1940年代後半のベトナム独立時に制定された憲法は、旧宗主国フランスのみならずアメリカ合衆国憲法をも参考に作られており、1950年代にアメリカでレッド・パージ(マッカーシズム)が起こった頃には、一時、ベトナムでは自らの共産党を法的に非合法組織としたことすらあった。
第一次インドシナ戦争でベトナムがフランスに勝利した後、アメリカがベトナムに介入した。ベトナムへの影響力を喪失した旧宗主国のフランスに代わり、アメリカ合衆国政府は南ベトナムに傀儡政権を樹立して、背後から操って間接支配を続けた。1954年にベトナム独立戦争が終結した後、1960年にアメリカ合衆国の傀儡政権を打倒し、ベトナム人自身による民族自決統治を求める南ベトナム解放民族戦線が、南ベトナム政府軍に対する民族独立の武力闘争を開始した。
1961年にアメリカ合衆国政府は、南ベトナムにアメリカ合衆国軍や軍事顧問団を派遣し、傀儡政権である南ベトナム政府を支援し、トンキン湾事件を口実にベトナム戦争への軍事介入、南ベトナム解放戦線に対する掃討戦を開始した。詳しくはベトナム戦争(ベトナムでは「抗米戦争」と言われている)を参照。1965年に、アメリカ合衆国政府は北ベトナムに戦線を拡大し、北ベトナムのみでなく、ベトコンが潜伏していたラオスやカンボジアに設置された「ホーチミン・ルート」も同時期に大規模爆撃した。
CIAは、秘密戦争をタイ王国、ラオス、カンボジアで開始していた。中でも、米国内で秘密にされた米軍によるロン・ノル政権支援の為のカンボジアへの大爆撃は、この一国に対してだけで、第二次世界大戦での日本への爆撃総規模の三倍に達していた事も判明している。北ベトナムとアメリカは敵対関係となった。アメリカ軍はベトナム戦争当時の1968年(昭和43年)3月16日に、クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落にて、ソンミ村虐殺事件を起こしている。
詳細は「ソンミ村虐殺事件」を参照
また、捕らえられた米兵は、別名『ハノイ・ヒルトン』(正式名称:ホアロー捕虜収容所)に収容され、現アメリカ合衆国上院議員のジョン・マケインも収容され捕虜となったのち、北ベトナム兵より拷問を受けた。(ハノイ・ヒルトンとは蔑称であり、本家『ヒルトンホテル』のことではない。)1999年に、本物のヒルトンホテルである『ヒルトン・ハノイ・オペラ』が、首都ハノイで開業している。
1975年4月30日の「サイゴン陥落」で、ベトナム戦争でのアメリカ合衆国の敗戦が確定した。事前に進軍を察知したアメリカ合衆国は『フリークエント・ウィンド作戦』を決行し、自国民の保護の他に南ベトナムの要人も保護した。アメリカが支援していた南ベトナムからは、多くの難民(ボートピープル)が流出し、カナダ、オーストラリア、フランス、アメリカ、日本へと移民した。サイゴン陥落後からソ連崩壊を経て、ドイモイ政策後の1995年8月5日、ベトナムとアメリカは和解し、越米両国の国交が復活し、通商禁止も解除された。しかしアメリカは、1973年のパリ和平協定の戦時賠償事項を、2015年現在に至っても全く履行していない。
2000年には両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、フォードやジェネラルモーターズ、コカ・コーラやハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出し、2003年にベトナムの国防大臣はペンタゴンの歓迎式典で最大の敬意を払って迎えられた。
ベトナム政府は経済、外交などで対米接近を基本政策としており、ジョージ・W・ブッシュ大統領の来訪も大歓迎している。対米関係への配慮から、ベトナム戦争中の枯葉剤などについても、あえて『民間団体』に担当させて、政府は正面に出てこないくらいアメリカに気を遣っており、一般のベトナム人も、経済向上のためにはアメリカとの関係を緊密にすべきだと感じ、アメリカの観光客、企業代表などを熱く歓迎している。米軍に侵攻され、多大な被害を受けたにもかかわらず、政府・国民とも親米的な珍しい例である[39]。2010年8月には国交復活15周年を記念し、空母ジョージ・ワシントンが中部ダナン市を訪問した。しかし、薬品会社は未だ枯葉剤問題に対して棄却し未解決であり、アメリカに激しい憎しみを持つ者も存在する。
アメリカは、南ベトナムからは82万ものベトナムの難民を受け入れており、ベトナム系アメリカ人が故郷ベトナムに旅行するなど交流は活発になっているが、基本的に南ベトナムからの難民が大多数なので共産主義のベトナム本土とは対立が根深く、ベトナム政府関係者の訪米には抗議する傾向がある。
2015年7月7日には、ベトナム戦争後、最高指導者として初めてグエン・フー・チョン党書記長が訪米して、バラク・オバマ大統領とホワイトハウスで会談した[40]。2016年のオバマ大統領はベトナムを訪問し、武器輸出全面解禁を表明した[41]。。
フランスとの関係
詳細は「フランスとベトナムの関係(英語版)」および「フランス領インドシナ」を参照 |
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19世紀末から20世紀初頭のフランス領インドシナの領域の拡張を示した地図。
ベトナムの植民地化を図るフランス第三共和国は、1883年の癸未条約(第一次フエ(ユエ)条約)・1884年の甲申条約(第二次フエ(ユエ)条約)によってベトナムを保護国化した。ベトナムへの宗主権を主張してこれを認めない清朝を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。
1900年代になると、知識人の主導で民族運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、大日本帝国に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開した。1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが結成され植民地解放を支援した。こうした中で、コミンテルンとの連携のもとでの民族運動が強まった。1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。
「:en:Vietnam during World War II」も参照
1939年9月1日にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、その翌年1940年から、フランス領インドシナに日本軍が進駐した(仏印進駐)。当時は、日本とドイツが同盟を結んでおり、大戦勃発当初は日独両国はフランスと軍事的に敵対していたが、1940年時点では、フランスはナチスドイツに降伏しており、日本はその隙を衝いて[要出典]仏印進駐を行ったのである。
仏印進駐後のベトナムは、フランスと日本による二重支配に置かれた。日本は「大東亜共栄圏」の主張を遂行し、明号作戦の結果、カンボジアとラオスと同時期の1945年3月11日、ベトナム帝国としてフランスからの再独立を果たした。このベトナム帝国の成立は、阮朝が王政復古を果たした日でもあった。ところが、1944年秋から1945年春にかけてベトナム一帯を凶作が襲い、多数の人々が餓死した。8月14日に日本が降伏を予告すると、1945年8月14日から15日にインドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立してホー・チ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。
その3日後にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム帝国皇帝バオ・ダイは8月30日に退位を宣言した。そして、9月2日には、ホー・チ・ミンは臨時政府を代表してベトナム独立宣言を読み上げ、国民と世界に向けてベトナム民主共和国の誕生を宣言した。
現在のベトナムの食卓で見かける「ベトナムコーヒー」「フランスパン・バインミー」「ワイン」は、仏領インドシナの名残りであり、「シエスタ(昼寝)」の習慣、ダラットで見かける高級ホテルや別荘、カトリック教会の聖堂である、ハノイ大教会・サイゴン大教会・ダナン大教会・ホイアンの古い町並みは、フランス統治時代の面影を色濃く遺している。また、現在世界遺産であるミーソン聖域の修復を施したのも、フランスのフランス極東学院であるが、ベトナム戦争時に、ここを拠点にしていた南ベトナム解放民族戦線(通称:ベトコン)アジト掃討のために、アメリカ空軍の爆撃機・B-52によって破壊された。
日本との関係
詳細は「日本とベトナムの関係」を参照 |
ホイアンの日本橋(来遠橋)。鎖国前、交易のあった頃に日本人によって作られたと言われ[42]、今でも現地の人に大切に使われている。提灯にフェホォと書いてあるが、これは当時のホイアンの町の呼称である。世界遺産。 |
百人一首』の歌人、阿倍仲麻呂は中国唐朝の安南節度使でもあった。仏印進駐後、サイゴン(現在のホーチミン市)を闊歩する日本軍兵士(1941年)。 |
古代
西暦734年遣唐使判官・平群広成が帰国の途上、難破して崑崙国に漂流し抑留された。フエ付近に都があったチャンパ王国と考えられる。広成はその後、中国に脱出し、渤海経由で帰国している。反対に、チャンパ王国からは仏哲という僧侶が736年(天平8年)に日本に渡って、東大寺で法要を読んでいる。753年には遣唐使藤原清河や阿倍仲麻呂が帰国の途上、同じく漂流し、当時中国領だった安南のヴィン付近に漂着した。東シナ海から南シナ海に南下する海流の関係でこのような漂流ルートが存在したようだ。これが縁で阿倍仲麻呂は761年から767年まで鎮南都護・安南節度使としてハノイの安南都護府に在任した。
室町時代から江戸時代
14世紀から15世紀にかけて、交易国家として栄えた琉球はチャンパ王国とも通好があった。江戸時代・17世紀になると、朱印船がベトナム方面へ進出し、江戸幕府は北ベトナムの大越黎朝や南ベトナムの広南阮氏政権とも外交文書を交換し、朱印船が出入りした。ホイアン(會安)には、1000人程の日本人町も形成されていた。朱印船はまた南遷していたチャンパ(占城)でも唐船(中国船)と出会い貿易を行っている。ベトナムの通貨の名称・ドンは、ベトナムの主要通貨であった銅銭を意味するベトナム語ドンティエンに由来する。日本の銅銭・寛永通宝はその材質の良さから、東南アジアの基軸通貨の一つとして流通し、国際取引の決済通貨として使われていた。しかし、朱印船がカトリックの宣教師の密航の手段として用いられたことや、また、朱印船を通じた武器や牢人の流出が、日本を国際紛争に巻き込む火種とみなされたことを受けて、1630年代になると江戸幕府は、長崎奉行に対する職務規定(鎖国令)の発布で、日本人の東南アジア方面への渡航を禁止した。そのため、日本人町は廃れていった。
明治時代から昭和前半
ベトナム最期の王朝である阮朝は、フランス共和国の植民地侵攻により、フランス領インドシナとなってしまったが、日露戦争で帝政ロシアに勝った、東の小国「大日本帝国」が、ファン・ボイ・チャウなどベトナムの知識人らに知れ渡り、大日本帝国にベトナムが独立するための武器援助を求めて来日するが、犬養毅によって拒否された代わりに、勉学に勤しむことを提案され、大日本帝国へ留学する運動『東遊運動』が盛んになった。しかし、フランスは大日本帝国に圧力をかけ、日仏協約を締結させ、日本在住のベトナム人を追放させた。
第二次世界大戦
1940年(昭和15年)に、日本軍は北部仏印進駐を行い、1941年(昭和16年)には南部にも進駐した。これは、フランスのヴィシー政権との外交協議によるものであり、日本軍は太平洋戦争末期までフランス領インドシナ政府と共存していた。その後、大日本帝国陸軍は、1945年3月に明号作戦によりフランス領インドシナを解体し、阮朝の保大帝の下でベトナム帝国を独立させた。
戦争終結後に生じた権力の空白はベトナム独立同盟(ベトミン)に有利に作用し、1945年8月の日本敗戦直後にホー・チ・ミン(阮愛国)率いるベトミンは保大帝を退位させてベトナム八月革命を達成した。駐留期間の大半においてフランスの同盟国軍として植民地政府に加担したことで、日本もフランスと同類の帝国主義国に過ぎないと見做されている[注 6]。
第二次世界大戦末期の1945年に、トンキンを中心にベトナム北部で大飢饉が起こり、大量の餓死者が発生した。餓死者は推計200万人に近いとされる。ホー・チ・ミンが独立宣言の中でフランス・日本の二重支配によって200万人が餓死したと演説しており、ベトナム国内ではこの200万人という数字は広く知られている(ベトナム独立宣言参照)。いずれにしろこの件につき、日本に対しベトナム政府は外交問題として取り上げたことはない。より多くのベトナム人が、その後の第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争で亡くなっているためと考えられている。戦後の日本は、アメリカの後押しでできた南ベトナム政府に、賠償として140億4000万円(3900万ドル)を供与した。しかし、餓死したのは北部のベトナム人だった。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後、フランスが再び進駐してくると、フランス軍とベトナム民主共和国軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争)が始まったが、仏越両軍に日本軍兵士が多数参加し、ベトナムの独立に対して多大な貢献をした。当時、ベトナムには766人の日本兵が留まっており、1954年のジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、陸軍士官学校を創設して約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である。
1951年に日本政府はベトナム国(南ベトナム)と平和条約を締結し、1959年には岸信介首相(当時)がベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。
一方、ベトナム民主共和国(北ベトナム)は戦争賠償の請求権を留保したが、日本と北ベトナムは国交のない状況が続いた。しかし、ベトナム戦争末期の1973年7月より、フランス・パリにおいて国交交渉が開始される。同年9月21日には交換公文が交わされ、大使級の外交関係が樹立された[43][44]。また、国交樹立の合意に伴い「経済協力」の形で2年間で4500万ドル相当の賠償金を支払うこととなった。
日本共産党と全教は1993年よりフエでストリートチルドレンの保育・教育施設「ベトナムの子どもの家」(小山道夫[注 7] 主宰)を運営している。小山自身は日本共産党員であるが、旧社会党系[注 8]の活動家・政治家と親しく、1994年6月30日から1997年(平成9年)11月7日の自社さ連立政権下においては、フエ省知事顧問として複数の日本ODA事業をフエに導入することに成功し、地元の信頼を勝ち得た。支援する「ベトナムの子どもの家を支える会」の活動も盛んであり、日本民主青年同盟、革新自治体の青年・学生組織及びピースボートと交流を行なっている。
近年、日本企業のベトナム進出が相次いでいるが、その要因として中華人民共和国の半分から3分の1ともいわれる賃金、AFTA(ASEAN自由貿易地域)の推進に伴ってASEAN域内への輸出拡大が見込める点、さらには中華人民共和国一極集中のリスク(チャイナリスク)の回避などが挙げられる。
近年の日越関係
日越両国の関係は「緩やかな同盟関係」と評されている。ファン・ヴァン・カイ前首相は親日・知日家で知られており、また、日本政府や経団連も積極的に経済援助を行っている。グエン・タン・ズン首相は親中派で日本に対する関心が低いと一部報道で伝えられており、今後の両国の関係を懸念する向きもあるが、2007年(平成19年)11月にはグエン・ミン・チェット国家主席が国賓として初めて日本に招かれ、今上天皇・皇后との懇談[45]や、日本経団連との会合をおこなった。
皇太子徳仁親王は2008年(平成20年)9月20日に日越国交35周年の記念イベントである「ベトナムフェスティバル2008」の開会式に臨席し[46]、翌2009年(平成21年)2月には、ハノイ・ダナン・ホイアン・ホーチミン市とベトナム各地を縦断して訪問し、今上天皇が皇太子時代の1976年(昭和51年)に南部のカントー川支流で新種のハゼが見つかったことを明らかにした学術論文をハノイ自然科学大学に寄贈した[47]。また、「日メコン交流年2009」ではベトナムの宮廷舞踊や民俗舞踊を観覧している[48]。
査証に関しては、2005年5月1日、相互免除に関する口上書を締結し、公用訪日者や短期訪越者は査証が免除されている[49]。2015年1月にベトナム側の入管法改正により一旦再入国や滞在期限延長に関する規制が強化されたが、2016年1月にはある程度の緩和が実施され、良好に査証が免除されている関係である[50]。
政府開発援助・価値観外交
ODAは日本が最大の支援国であり、日本のODAによってタンソンニャット国際空港やカントー橋、ハイヴァントンネルやノイバイ国際空港やニャッタン橋など、ベトナムの基幹インフラを建設・支援をしている。また、ソフト面でのインフラともいうべき法律分野でも、日本の法整備支援が大きな役割を果たしている。ベトナムは、1986年のドイモイ以後、市場経済システムへの移行のため、市場経済に適合した法制度の整備が重要な課題の1つとなったが、ここに1994年以来日本の法整備支援が関与している。その結果ベトナムは、改正民法、民事訴訟法、民事判決執行法といった法律を次々と成立させるなど、法制度の整備に大きな前進を見せてきた[51][52]。この分野でのベトナムの日本に対する評価は高く、2007年3月28日には、ベトナムに約3年常駐したJICA長期専門家が、ベトナム司法大臣から、「司法事業記念賞」を授与されている[53]。
高速鉄道計画
2007年(平成19年)2月27日にはベトナムを南北に縦貫する高速鉄道の建設に向けて両国間で共同委員会が設けられた。委員会には日本から国際協力機構 (JICA)、国際協力銀行 (JBIC)、日本貿易振興機構 (JETRO) が、ベトナムからは計画投資省、運輸省、ベトナム国鉄が参加した(ベトナム高速鉄道計画を参照)。2010年(平成22年)5月には、前原誠司国土交通大臣がベトナム政府へ「日本の新幹線方式」の売り込みをした。ベトナム政府は承認したものの、ベトナムの国会では総投資額540億ドルという「巨額費用」がネックとなり、6月19日のベトナム国会にてこれらの政府案は否決された。その結果ベトナム高速鉄道計画は、日本との契約を破棄し、高速鉄道計画は白紙から見直されることとなった。
原子力発電所計画
慢性的な電力不足に陥っているベトナムは、2000年代に入り原子力発電所の建設計画が具体化。原発保有各国が売り込みを行う中、ニントゥアン第一原子力発電所がロシアにより、ニントゥアン第二原子力発電所が日本により建設される見通しとなった。2010年(平成22年)10月31日、菅首相(当時)とグエン・タン・ズン ベトナム首相との首脳会談がハノイで行われ日本をパートナーとすることを表明[54]、2011年(平成23年)10月31日には、野田首相がズン首相と総理大臣官邸で会談し、計画通り実施することを再確認した[55]。同日にベトナムでは日本原子力発電により原子力発電導入可能性調査(FS)が開始されたと報道された[56]。
ベトナムと「ホンダ」
ベトナム最南端、カマウ省ダットムイ村のバイクタクシー組合(Ngiệp Đoàn xe Hon Đa khách:直訳で「業団車ホンダ客」)の制服。2015年12月。
かつてベトナム国内では本田技研工業のホンダ・カブやドリームがよく見られた。これは1970年代以降のベトナムにおいて、この種のビジネスバイクを普及させる端緒ともなった存在で、扱いやすさや燃費、修理のしやすさや経済性のみならず、本田技研工業の想定範囲や先進国の安全常識では到底考えられない異常な酷使、過積載(「100kg 単位」での重貨物搭載や、子供まで含めての3人乗り、4人乗りといった曲乗り状態も珍しくない)にも耐える高い信頼性によって、オートバイを生活の道具として重要視するベトナムのユーザーから強い支持を得たからである。現在でもホンダの二輪車は、多くの消費者の支持と圧倒的なブランド力を得ている。ベトナムでのホンダの知名度・ブランド力は1990年代まで圧倒的であり、オートバイが(一般名詞として)「ホンダ」と呼ばれていた過去があり、2015年現在でも、地方ではオートバイのことを「ホンダ」と呼んでも意味が通じる。その後はヤマハやスズキなどもベトナム国内に類似デザイン・類似設計の後発競合車種(ヤマハ発動機のメイト、スズキのバーディーなど)を投入した。2000年代以降は中国製・台湾製のオートバイや電動バイク、電動自転車もシェアを伸ばしている。
教育・文化交流事業
「ベトナムの日本語教育」も参照
地方行政区画
詳細は「ベトナムの地方行政区画」を参照
ベトナムの地方行政区画。 |
2011年4月の改正により、58省と、5の中央直轄城舗(市)となった。中央直轄城舗はハノイ(河内)、ホーチミン市(胡志明)、ダナン(沱灢)、ハイフォン(海防)、カントー(芹苴)。国土最北に位置する省はハーザン省(Hà Giang, 河江)、国土最南に位置する省はカマウ省 (Cà Mau) である。
主要都市
「ベトナムの都市の一覧」を参照
住所表記
欧米の多くと同様に、細かい分類から順に表記し、またストリートによって住所を表す。番地は、偶数が左車線側、奇数が右車線側のように分かれ、ストリート名のない細かい路地に入る場合は、7/40(40番地にある路地内の7番目)のように表記する。例として、ホーチミン市1区人民委員会の住所を下記に記す。
(1区人民委員会 - 47番地、レ・ズアン通り、ベンゲー坊、1区、ホーチミン市、ベトナム)
地理
ベトナムの標高図 |
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世界遺産に登録されたハロン湾。 |
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ベトナム北部の徳天瀑布。 |
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トゥアティエン=フエ省の砂浜。 |
ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。インドシナ半島の太平洋岸に平行して南北に伸びるチュオンソン山脈(アンナン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、ベトナムでは米かごを吊るす天秤棒に喩えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。北のデルタは、紅河(ソンコイ川)によるもので、首都ハノイのほか港湾都市ハイフォンが位置する。南のデルタはメコン川によるもので、最大の都市ホーチミンを擁する。
沿岸の総延長距離は3,260km、北部国境(中国国境)の長さは1,150km、国境の総延長距離は、6,127kmである。
沿岸には北部・トンキン湾を除き、島嶼がほとんど存在しない。本土から離れた領土として、ホーチミン市から約600km東、南シナ海に浮かぶ、ベトナム語名「チュオンサ」(スプラトリー諸島、南沙諸島)と、ダナンの約400km東、南シナ海に浮かぶ、ベトナム語名「ホアンサ」(パラセル諸島、西沙諸島)の領有権を主張している。チュオンサ群島は一部を実効支配し、ホアンサ群島は全体が中華人民共和国の実効支配下にある。ベトナム最大の島は、最西端の領土となる、シャム湾に浮かぶフークォック島である。
主要な河川は紅河(支流であるカウ川、ロー川、ダーツ川)、ダンホアに河口を持つカー川、中部のバー川、南部のドンナイ川、メコンデルタのメコン川である。天然の湖沼はデルタに残る三日月湖がほとんどである。最高峰は北部国境に近いファンシーパン山 (3,143m)。アンナン山脈中の最高峰は、中部のフエやダナンに近いアトゥアト山 (2,500m) である。
デルタ地帯
5月から11月にかけて、インド洋を渡ってやってくるモンスーン(季節風)が東南アジア大陸に大量の雨を降り注ぎ、山の土が崩れ、川に流れ込み、河川のいたるところで堆積し、河口では大きなデルタを形成する。このデルタは比較的低平なので水田耕作などに適し、穀倉地帯となっていることが多い。北部の紅河デルタや南部のメコンデルタが、重要な穀倉地帯になっている。コメ生産は北部の紅河デルタでは二期作、南部のメコンデルタでは三期作である[57]。
平野
ベトナム北部には、紅河、マー川(タインホア省)やラム川(ゲアン・ハティン省)の下流域などに大きな平野が広がっている。紅河平原の面積は約15,000平方キロメートルで一面が水田であり、人口は6,500,000人(1931年時点)を擁し、そのほとんどは農民である。[58]。
気候
ベトナム全土は北回帰線よりも南に位置し、赤道近くまで伸びる(本土の最南端は北緯8度33分)。このため南西モンスーンの影響を強く受ける。7月から11月まで台風の影響を受け、特に国土の中央部が被害を受けやすい。
北部は温帯性の気候であり、4月から10月までが雨期となる。首都ハノイの平均気温は1月が16℃、7月が29℃である。年平均降水量は1,704mm。チュオンソン山脈の影響により、山岳地帯では降水量が4,000mmを超える場所もある。ケッペンの気候区分では、温暖冬季少雨気候 (Cw) に分類されている。
南部は熱帯性気候下にある(ケッペンによる気候区分はサバナ気候〈Aw〉)。[注 11]。平均気温は1月が18℃、7月が33℃だが、平均降水量は1,000mmと少ない。
北部には紅河、黒河(ダー川)、南部には九龍江(メコン川)が広がる。
紅河デルタにあるフーリーでは、1980年から1995年の月別平均気温は、1月16℃、2月15℃、3月19℃、4月22℃、5月26℃、6月27℃、7月28℃、8月27.5℃、9月26℃、10月24℃、11月21℃、12月19℃である[59]。
経済
リゾート地として有名なニャチャン |
1997年に落成したサイゴン貿易センター。 |
ホーチミンのバス |
IMFの統計によると、2013年のベトナムのGDPは1,706億ドル。一人当たりのGDPは1,901ドルであり、世界平均の20%に満たない水準である。[1] 2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は3333万人と推定されており、国民のおよそ40%を占めている[60]。
1986年12月のベトナム共産党第6回大会で、社会主義に市場経済システムを取り入れるというドイモイ政策が採択、中国の改革開放と同様に市場経済路線へと転換した。1996年のベトナム共産党第8回大会では、2020年までに工業国入りを目指す「工業化と近代化」を二大戦略とする政治報告を採択した。
政府開発援助と外国投資が経済を牽引している。世界金融危機で一時失速した国内総生産 (GDP) の成長率も、2007年8.5%、2008年6.3%、2009年5.3%、2010年6.8%と安定成長が続いている。一方インフレ率も11.8%(2010年)と高い。中国では人件費が上昇基調にあることから、新たな投資先として近年、注目されている。こうしたことからも、WTO加盟が政府にとって重要な目標となっていたが、2007年1月、ようやくWTOに加盟した。欧州連合は新興国で初のFTAを結ぶ相手にベトナムを選んだ[61][62]。伝統的な友好国である旧ソ連圏であるユーラシア経済連合も初のFTAをベトナムと結んだ[63]。また、環太平洋戦略的経済連携協定では米国政府によれば最も利益を受ける国とされており[64]、日本政府によれば交渉でも主導的な役割を果たしており[65]、世界銀行によればTPPで最も恩恵を受ける国である[66]。
NEXT11やVISTAの一角にも数えられており今後一層経済の発展が予想されている。1日1ドル以下で生活する貧困層の割合は中国、インド、フィリピンを下回る。
労働人口の66%が第一次産業に従事しているが、近年は第二、第三次産業が急成長。観光業の伸びが特に著しく、重要な外貨獲得源となっている。
主な輸出品目は原油、衣料品、農水産物。特にコメについては、タイに次ぐ世界第二位の輸出国であったが、現在[いつ?]は輸出制限措置をとっている。カシューナッツと黒胡椒の生産は世界の1/3を占め1位。コメのほかコーヒー、茶、ゴム、魚製品の輸出も多い。しかし、農業のGDPに占める割合は他の産業が成長したため20%(2006年)に低下した。原油生産は東南アジアで第3位である。
人件費は中国のおよそ6割であり、政府も自国の売り込みを積極的に行っているが、輸送網が良いとは言えず(1988年の中国と同程度。但し、中国も2010年現在、沿岸部では賃金が高騰しているため、輸送網の悪い内陸部に工場を移さざるを得なくなっている)、また、法律もアバウトである。こうした点から、衣料品など、低付加価値製品の生産が2010年現在に至るまで主になっているベトナムであるが、サムスン電子とキヤノンは、莫大な資金を投じてベトナムで電子機器の生産・サービス拠点の建設を進めており、ベトナムが中国に次ぐ「世界の工場」の座を射止めることができるかが世界の企業家から注目されている[67]。
2010年8月4日、ベトナム公安省は、乱脈経営で国営ベトナム造船グループ(ビナシン)を経営危機に陥れたとして、同グループの前会長を背任に当たるとして逮捕した。前会長は親族を重要ポストに登用するなど私利を図っていた疑いがもたれている。
2011年11月8日、2011-2015年の社会経済発展計画を政府が提案し、国会で承認された。国内総生産年平均6.5-7%の成長率を目指し、公共投資や国営企業の改善を通じた経済構造の再編を図るものである。
農業
コーヒーは、現在ではブラジルに次いで世界第二位の生産量(99万トン、2003年)に達している。大部分がインスタントコーヒー、缶やペットボトル入りの清涼飲料、製菓用途で使われる安価なロブスタ種(カネフォラ種)であるが、レギュラーコーヒーに使われる高級品のアラビカ種の栽培も始まっている。また、現地では基本的に植民地支配を受けたフランスの手法を取り入れた飲み方にてベトナムコーヒーが飲まれる。
水田水稲作地帯は北部の紅河デルタと南部のメコンデルタであり、生産性も高く、国家の重要な穀倉地帯を形成している。メコンデルタで栽培できる野菜類は、ナス、キュウリ、トマトなどのほかに、ミント類がある。
鉱業
ベトナムは石炭・南シナ海で採掘される石油を中心とした有機鉱物資源、スズを中心とした金属鉱物資源に恵まれている。北部ハロン(ホンゲイ)から産出する石炭は上質の無煙炭であり、19世紀末からホンゲイ炭として採掘が始まっている。石炭技術で釧路コールマインとの繋がりが太く釧路市に名誉領事館を設置している。2003年時点の採掘量は1670万トン。ベトナムは産油国でもあり、1660万トンの原油を産出する。輸出品目の第一位は石油であり、2002年時点では全輸出額の19.6%を占めた。天然ガスの採取量は126千兆ジュール。
金属鉱物資源は、北部デルタ周囲の丘陵地帯に主に産する。もっとも重要なのが世界第4位のスズ(4000トン、世界シェア1.5%、2005年)。亜鉛、金、クロム、鉄、鉛のほか、リン鉱石を産出する。
国民
憲法第5条に「ベトナム社会主義共和国はベトナムの地に共に生活する各民族の統一国家である」と、多民族国家であることを規定している。ベトナム政府が公認しているだけでも54の民族がいる。ベトナム国民は、身分証明書を一定年齢以上に達すると発給され、身分証明証には民族籍を記入する欄が設けられている[68]。
民族構成
詳細は「ベトナムの民族一覧」を参照
ベトナムでは公式に認められている民族が54あり、そのうちキン族(ベトナム族)がもっとも多く、全人口の85%から90%を占める。キン族の言語であるベトナム語はムオン族・セダン族などと同じオーストロ・アジア(モン・クメール)語族に属する。ムオン族はホアンビン省、タインホア省の山間部に住み、ベトナム語のゲアン方言などとの近似性が指摘されている。[69]
その他に少数民族としてホア族(華人)、タイ系のタイー族・ターイ族・ヌン族、クメール族、ムオン族、モン族(ミャオ族)、ザオ族などがある。少数民族のうち、ホア族とクメール族以外の大半は山地に住む。
言語
言語はベトナム語(越語)が公用語である。その他にも、漢字文化圏の影響で華語(主に広東語、台湾語、北京語)、クメール語なども使われており、フランス領インドシナ時代の影響から、少数のエリート層や高齢者の間ではフランス語が理解できる人もいる。また、ソビエト社会主義共和国連邦との共産主義国とのつながりがあったため、ロシア語を理解できる人もいる。ただし、最近の若年者の教育は英語教育が一般的になり、町の看板などを見渡してもベトナム語以外では、欧米人観光客向け(観光客相手に生活していく上でも、英語ができないと生活が成り立たないため)に英語が目立つのが、現在の状況である。
人名
詳細は「ベトナムの人名」を参照
主要民族であるキン族を中心に、ベトナムの人名の多くは、漢字文化圏に属しており、人名も漢字一字(まれに二字)の漢姓と、一字か二字(まれに三字)の名からなる構造は中国と共通している。婚姻の際には基本的に夫婦別姓となる。しかし各字の機能は漢名とは異なっており、名のうち一字目は「間の名」(tên đệm、ミドルネーム)と呼ばれ、末字の名と一体化しておらず、また中国の輩行字、朝鮮の行列字のような世代の区別に使われることもない。目上や目下に対しても、呼びかけに使われるのは末字の名のみであり、間の名は含まれず、また姓を呼びかけに使うことはほとんどない。
名付けに使われる語は必ずしも漢字由来のものに限らず、庶民の間では固有語による名付けがかなり存在している。また少数民族の名前には、上記の説明にあてはまらない固有のシステムをもつものがある。
文字
詳細については、各項目を参照のこと。
クオック・グー(國語)
声調をもつベトナム語を表記するために発明された声調入りアルファベット(ラテン文字)であり、現在唯一の公用文字。17世紀にフランス人のイエズス会宣教師、アレクサンドル・ドゥ・ロードが、ベトナムでのカトリック教会布教の為に発明した文字。19世紀末以降のフランス植民地時代に普及し、1945年の独立時に正式に公用文字となった。現在、ベトナム語は専ら、この文字により表記される。
チュニョ(𡨸儒)
上記のクォック・グーが公用文字となるまで、ベトナム語を表記する公用文字はなく、書き言葉としては専ら漢文(古中国語)が用いられた。クォック・グーの普及により使用頻度が減少したが、ベトナム語の中には漢字語の影響が強く残っている。北ベトナムでは1950年の暫定教育改革により漢文教育を廃止し、1954年には漢字の公的な使用を全廃、南ベトナムでは1975年の崩壊まで中等教育での漢文科が存続していた。2014年現在では、ベトナムの僧侶か日本語と中国語学習者しか読めなくなっている。
チュノム(𡨸喃)
ベトナム語を表記するために13世紀に発明された合成漢字。固有語の表記に用いられ、漢字と混ぜ書きされた。
など、複数の造字法があり複雑で、一時期を除いて公用文字に採用されることはなかったが、民族意識の高まりを背景に民間では有識者層を中心に普及し、18世紀から19世紀には多くのチュノム文学が生まれた。20世紀になると、漢字の画数が複雑過ぎる事で、初等教育に支障を来す事や、クォック・グーの普及により、急速に衰退の道を辿った。
宗教
「ベトナムの仏教」、「ベトナムのカトリック」、「ベトナムのイスラム教」、および「ベトナムのヒンドゥー教(英語版)」も参照
宗教は仏教(主に大乗仏教)が大半を占めている。その他にも道教、ローマ・カトリックなどがある。中部(旧チャンパ王国の領域)ではイスラム教やヒンドゥー教、南部にはホアハオ教や、混淆宗教としてのカオダイ教が教勢を保っている。公的に認められた宗教は、仏教、カトリック、プロテスタント、イスラム教、カオダイ教、ホアハオ教の六つである。このうち後ろの二つはベトナムで生まれたベトナム独自の宗教である。プロテスタントに関しては、アメリカの宣教団体からの布教が強かった経緯もあり、旧南ベトナム地域および、ベトナム戦争中に南側についたバフナル族、ジャライ族、エデ族、コホ族などの山岳民族の間での信仰が中心である。
それぞれの公認教団の信徒数は、2008年の資料で仏教1,000万人、カトリック550万人、カオダイ教240万人、ホアハオ教160万人、プロテスタント100万人、イスラム教6万5千人となっている[70]。
国家は宗教の自由を人民に保障しているが、同時に信仰に制限があることも法に明記している。過去には2001年、2004年に、政府に土地を奪われた山岳民族による暴動が元でプロテスタントの弾圧が起きた。また、政府非公認教団である「統一ベトナム仏教教会」が弾圧に抗議して1992年に騒擾事件を起こす事件も発生している。2014年現在でも、非公認プロテスタント教団の活動は第三級行政区レベル(坊、社、市鎮)に留められており、より上位の行政区では活動ができないなどの各種制限が存在する[70]。
また共産党員はホー・チ・ミン元国家主席のみを信仰する傾向がある。むろんホー・チ・ミン信仰は宗教ではないが、それに匹敵する影響力を有する(ホー・チ・ミン自身は自らが崇拝の対象になることを徹底的に嫌っていた。)。
LGBTの権利
詳細は「ベトナムにおけるLGBTの権利」を参照
主に南部では、タイやカンボジアと同様に、トランスジェンダー文化の伝統があるが、主に儒教の影響から同性婚は長らく認められず、2002年に国営メディアでは同性愛を売春や賭博、違法薬物などと並ぶ「社会悪」であるとの認識を表明し、同性愛の規制や同性愛カップルの逮捕を行える法整備を確約した[71]。しかし世論の高まりとともに、2009年に初の女性への性別変更と改名が認められる判例が生まれた。2013年には同性婚の禁止と罰金制度が法律から削除され[72]、また同性カップルの同居に対して、正式な結婚には劣るが、ある程度の権利が認められた。しかしのちにこの権利条項は削除されている[73][74]。2014年10月現在、同性婚は禁止こそされてはいないが、法的な権利が認められているわけでもない。
教育
詳細は「ベトナムの教育」を参照
成人識字率は、93.4%で非常に高い(2000年、ユネスコ調べ)。[75]。
初等教育
6歳から始まり、小学校5年間、義務教育、学費は原則無料。
中等教育
基礎中学校(前期中等教育、日本の中学校)4年間、普通中学校(後期中等教育、日本の高等学校)3年間。
5-4-3制で、この期間を普通教育と呼ぶ。
高等教育
ベトナムの大学には国家大学(首相直轄校)、国立大学(地方総合大学、専門大学:教育訓練省、厚生省、文科情報省、人民委員会等の所轄)、民立大学がある。
3年制の短期大学と4-6年制の大学がある。
教育行政]
教育行政は、中央に教育訓練省、地方の省レベル[注 12]に教育訓練局、県レベルに教育課がある。学校段階別の管轄関係は基本的には次のようになっている。高等教育は教育訓練省、普通中学は教育訓練局、基礎中学・小学校・幼稚園・保育園は教育課。これら教育行政機関の職員は「教育管理幹部」と呼ばれ、教育経験者。教員の資格要件は、幼児教育と初等教育で中等師範学校卒、前期中等は師範短期大学卒、後期中等教育は大学卒となっている[77]。
文化
ベトナムは漢字文化圏に含まれる。 |
ベトナムコーヒーの道具一式。 |
歴史文化遺産
1945年の独立後、ホーチミン主席令が出される。東洋博古学院が古跡保護の責任を持つようになった。現在は歴史文化遺跡指定制度を文化・情報省が行っており、現在の総指定件数約2800件のうち、約2000件は寺、ディン(亭、村の守護神が祀られている)、廟、デン(神社)が占めている。1957年、遺跡保護に関する議定を制定し、1962年にはじめて「歴史文化遺跡」が指定された。対象は不動産中心で、革命や抗仏戦史に関する史跡、考古学的遺跡、建築、景勝地などが指定された[78]。
食文化
詳細は「ベトナム料理」を参照
概して米食文化であり、麺類も米粉製が多い。庶民の常食は米飯、麺、粥、フランスパン等である。中華料理とフランス料理の影響を受けている。また、世界第二位のコーヒー生産国であることもあり、独自のコーヒー文化が存在する。
文学
18世紀末から19世紀初め頃に文官グエン・ズーが、明末清初頃に成立した白話小説『金雲翹伝』を韻文に翻訳し、チュノムで『金雲翹』を書いた[79]。以来、『金雲翹』はベトナムの国民的な古典文学作品と看做されている[80]。
芸能
世界遺産
ベトナム国内にはユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件存在する。
詳細は「ベトナムの世界遺産」を参照
祝祭日
日付 |
日本語表記 |
越語表記 |
備考 |
Tết Dương Lịch/Tết Tây 節陽曆/節西 |
休日。日本と違い2日より、官公庁や企業は通常営業となる。 |
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Tết Nguyên Đán 節元旦 |
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Ngày Quốc tế Phụ nữ 𣈗國際婦女 |
祝日 |
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旧暦3月10日 |
Ngày Giỗ tổ Hùng Vương 𣈗𣋼祖雄王 |
2016年は4月16日。休日。 |
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解放記念日 |
Ngày Giải Phóng/Ngày Thống nhất 𣈗解放/𣈗統一 |
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国際労働日(メーデー) |
Ngày Quốc Tế Lao Động 𣈗國際勞動 |
解放記念日と続き休日で、唯一の連休である。 |
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旧暦5月5日 |
端午節 |
Tết Đoan ngọ 節端午 |
2016年は6月9日。虫封じの日 |
Ngày sinh của Hồ Chí Minh 𣈗生胡志明 |
ホー・チ・ミンの誕生日を祝う日。祝日 |
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Ngày Quốc tế Thiếu nhi 𣈗國際少兒 |
祝日 |
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旧暦8月15日 |
Tết trung thu 節中秋 |
2016年は9月15日。祝日 |
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Ngày Quốc Khánh 𣈗國慶 |
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Ngày Nhà giáo Việt Nam 𣈗家教越南 |
1982年制定。先生や教師に対して感謝する日。学校では感謝パーティが催され、生徒等から先生に贈り物が渡される[注 13]。祝日。 |
通信とメディア
新聞と雑誌
全国で発行されている新聞、雑誌は600種を超えているとされる。これらの新聞・雑誌は、ベトナム共産党とその下部組織や、省庁、機関の発行物である。日刊紙では13万部の『サイゴン・ザイフォン』(「サイゴン解放」の意。ホーチミン市党委機関紙)[81]、18万部のニャンザン(「人民」の意。ベトナム共産党中央委員会発行)、40万部の『タインニエン』(「青年」の意。ベトナム青年連協会発行)[82]、45万部の『トゥオイチェー』(「若者」の意。ホー・チ・ミン共産青年団発行)[83]などがある[注 14]。
前述の通りこれらはすべて党関係の機関紙であるが、トゥオイチェー紙は比較的革新的な編集方針を採っており、タブー視されているホー・チ・ミンの過去の経歴を掘り下げる報道や[84]、近頃の若者はホー・チ・ミンよりビル・ゲイツに憧れているなどの報道を行い、たびたび当局と衝突を起こしている[85][86]。
報道規制
インターネット規制
脚注
注釈
1. ^ ただし現在のディエンビエン省・ライチャウ省にはタイ族のムアン型国家「シップソンチュータイ」があり、これは第一次インドシナ戦争の終結まで残った
2. ^ 「一党独裁支配の国であり、選挙は政治において重要な役割を果たしてはいない。国会議員選挙が5月に行われたが、候補者たちは、党の翼賛団体「ベトナム祖国戦線」の入念なチェックを受けている。当選した500人のうち共産党員でない議員はわずか42人だった」[16]
3. ^ 新パスポートに入国審査官が捺印することは、中華人民共和国の南シナ海における領土主張を、ベトナムが認めてしまうため。但し、2012年5月以前に発行された中華人民共和国の旧パスポートに対しては入国・出国スタンプを捺印して『差別化』を図っている。
4. ^ 民国94年の台湾の内政部統計処調べ
5. ^ 1944年末頃、アメリカの航空将校ショウ中尉は飛行機事故のためカオバン付近の山地へパラシュートで降下したが、これを知ったフランス軍が数百名の部隊を派遣して、日本軍とともにその地域を包囲し、飛行機と操縦士の捜索を始めた。しかしその包囲が完成する寸前にショウ少尉はベトミンにより救出され、ベトミン三個小隊の護衛とともに国境のベトミン基地まで脱出、そこからホー・チミンに付き添われながら昆明のアメリカ空軍司令部にたどりついたという。[37]
6. ^ ホー・チ・ミンによる独立演説「1940年の秋に、ファシスト日本が連合国との戦いにおいて新しい基地を確立する為にインドシナ半島の領域を荒らした時、フランスの帝国主義者は彼らに膝を曲げてひざまずいて、我々の国を彼らに手渡した。このように、その日付から、我々の身内は、フランス人と日本人の二重の軛に服従した。」
9. ^ 国際交流基金日本語教育機関調査
12. ^ 地方行政は通常3段階に分かれている。60余りある省レベルの下に県レベル、その下に社レベルがある。[76]
13. ^ ベトナムでは、教師の給与は極めて低く、教職は貧しいが人々から尊敬される職業の代表である。
14. ^ タインニエン、トゥオイチェーともに、言葉の意味合いとしては同じ「青年、Youth」であるが、タインニエンは漢語、トゥオイチェーは固有語であるため、ここでは前者を漢語の「青年」後者を和語の「若者」と訳した。
出典
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20. ^ [http://www.recordchina.co.jp/a110505.html 米国がベトナムの巡視船購入に22億円供与、南シナ海問題では当事国に埋め立て停止を要求―米メディア]
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参考文献
関連項目
外部リンク
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なお、ベトナムの民商事法令の多くは、日本の法整備支援を受けて起草されている。
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